昭和45年01月10日 月次祭おける御教話



 おかげは頂かれません。おかげの受け物と、それはどう言う事かというと、感受性ということ、感受性が強い。感ずる。受ける。そう言う心が強い人。感受性が強い人だと、例えば、お話なんかを頂いていますと、直ぐ自分の身に摘まされて、もう涙をポロポロ流して、その人の話を聞く人があります。感受性が強いんですね。 
 相手が、いくら涙を流して話よってもです、自分の事じゃない、ホケンごとして聞きよる人があります。かと思うとそれを一心に聞いておる人は、はあ身に摘まされて、それが悲しい話でありますと貰い泣きをいたします。それが、あの感受性が強いという風にいわれます。ですから、信心させて頂く者は、その感受性がいよいよ、強く成らせて頂くおかげを頂を受けなければならんと思う。
 感受性そこで私はいつも思うです。是は朝の御祈念などの時でも同じですけれども、あの御教えを頂きます時ね、御理解を頂かして貰う時にどうぞ私が頂かなければならない、又私に頂かせて下さい。という強い祈り願いを持ってお話を頂かなきゃならん。今日はどげな話じゃろうかと、どげな事どん言うじゃろうかと云うものではなか。いけません又漠然とした頂き方でもいけません。矢張り私が頂なければならん。
 私に頂かせて下さいと言う、祈りを持たなきゃなりませんね。一生懸命ひとつあの頂かなきゃならん。私が頂くのです。沢山の人が頂いているのじゃない。私一人で頂いておると思うと、例え眠かっても眠けが覚めます。私ひとりにお話して下さって、おるんだと思う、けれども、ここに沢山の人は、あれは他の人が聞いとるのであって、というのであってはいけません。
 やっぱり自分自身が頂く、だから頂かせて下さいという願いを持たなければいけないね。【感受性】今日は、そんなことでこう少しお話したいと思います。今日朝の御祈念の後にこの合楽食堂の中村さんが朝の御祈念に参って見えられます。毎日参って見えます。娘さんが来月の今月の十四日か、何かが予定の出産日でございました。前々からお願いしてございました所が、そのあいにくと最近、風邪引いて御飯も頂かん。
 体が弱ってる、もうそれでこれは確かにそうですね。あの出産間時かになって、風邪を引きますと御飯がいけん、御飯がいけんとその力がない、だから自然に難産になると言ったような傾向が強いですね。ですから周囲の人達大変心配をしておりましたけれども、こう元気が出ない、所が昨日、一昨日でしたかね、出産の朝の御理解頂きました。その御理解を頂かせて頂きながら。
 「あぁひよっとすると「今日家の娘はおかげ頂くぞ」と思った。所謂その日の朝の御理解をピタッとこう受け止めたわけですね。神様はまるっきり私の為に、私の娘の為に今日は、あの出産のお話をして下さっておると思うて有難かった。帰らせて頂いたらおかげで無事安産のおかげを頂いたという。間もなくおかげを頂いた。今日も丁度四時の御祈念前の奉唱しいていたら立石さんていう方が、親子三人づれで参って参りました。
 昨日お参りさせて頂いて娘の出産のお届けをさせて頂いた。したら若先生の御取次を頂いて「そりゃ、おかげ頂きなさるばい。今朝出産の御理解でしたよ」て「ああ、そうでしたか」というて、親子でそのお話を頂いて帰らせて頂いたら、間もなく産気づいてから無事安産の御陰を頂いたと言うお礼、お届けが有った。私朝のにも私まだ善導寺にお参りを引き上げて帰りまして、家内は大きなをお腹して、あちらから、それこそ倒れ転びしながら帰って参りましたんですね。引き上げて帰ってきたんです。
 ちょうど愛子をお腹に入れて居ります、もう産み月でした。それがそのさまざまなところ通って来て居りますのですから、子供が逆子になっておる。こちらの産婆さんは、非常に危険を感じて居られたらしい、ところが丁度生まれます前日に、北京で掛かって居りました御産婆さん達夫婦がですね。大分に引き上げて帰ってきて、たまたま私のあれ前の晩から泊りがけで居る。
 そして、明くる朝産気づいた、私が朝の御祈念から帰ってくると、一寸具合が悪いからというて、まだ休んじゃ居りませんでした。んならちて私 またとって返して教会にお届けに参りました。その時も、やはりあの出産の御理解だったから、今日あたりおかげ頂くなと思って帰ったら、そうである。帰らせてお願いに出らせて頂いて御祈念中に、丁度何かまだその御神体、御心眼なんか知らない時分ですから。
 その時も半身半疑でしたけれど、御祈念中に確かに鶏の泣き声を聞いた、それが只そこ辺で泣きよるという感じではなくて、ああこれが何かお知らせじゃろうと言う風に思うた、それで御祈念を止めてから時計を見たら、何時何分で有った。家に帰らせて頂いたら、何時何分にやっぱりあの出産のおかげを頂いてあったそのおかげの受け物という事はね、そのようなもんなんですね。
 ですからその、そりゃ生まれつき非常に感受性の強い人がありましてね。もうすぐ有難くなる人が有りますよ。だからそういう意味ではない、これは人間なべて同じという意味合いの所から、出発しての感受性なんです。私が今日言っておるのは、その中にはありますよね、何日か参ったらもう「有難い、有難い」ち言うて、もうそれこそ有難涙にくれるように言われるから、本当に有難いかと思えばちゃんと止めて居られる。
 というのがあります。いわゆる涙もろいと言う人がありますね。もう本当にそんな人がある、昔、そんな人が有りました。もう大変熱心に参って来る。もう有り難うして応えん、有り難うしてこたえんもんですけん、もうそれこそ棒にも橋にもかかられんごとある所行ってから、お導きして見えるんですね。北野から参って来ておられましたが、もう本当に棒にも橋にも掛けられんという、ちょうど深町さん所裏辺りにちょうどまあ町人宿のような小さい宿屋が有った。
 そこに宿に間借りしている親子があった、そりゃもう毎日毎日働きに子供さんが小児結核でもうそれこそ十二歳になっとりましたが、こうやって抱えるごと痩せ細って居りました。その人達が宿にいっちょん払わんもんですから、追い立てをくってる訳、所が子供がおるしどうにも出来ない所へその方がお導きにいった。ほおりゃもう今日は椛目の先生に言うならもう直ぐ引き受けてやんなさるごと言わっしゃるもんじゃけん。
 もうつれてきて放たらかしたっきり、ほったらかしちゃる、という風にそう云う所にそのお導きに、そげな風に言うなら誰だってもう、渡りに船でそりゃお導きも出来ますよね、所がですね魔が指したとでも申しましょうかね、もう熱心に本当にお参りして「有り難い、有り難い、とに角椛目の先生は、日本一」というて宣伝して周って居られた。ところがですね、その佐賀に善隣会という信仰宗教がある。
 流行って来た、そしてその近所の人に進められてそこへお参りした。 一週間そのお米とお金と何千円かを持って来て一週間泊まって、一週間向こうでお話を頂いたり、修行をしたりするだけですね。そして上げます上げます、と言うあのもうとに角良うなるたんび「良うなりました、良うなりました。ち言う風なそのあれらしい、そして帰って来て言わく、「もう本当に有難い所に、私が今度御用頂いたから。
 というて、中村さん辺りに随分お導きを頂いた。今度反対に、佐賀の善燐会にお参りしてごらんなさい。と言う訳であったね。あぁあんたばっかりはほんなこて、椛目の先生に日本一てあげんいよったっが、どうしてそげなふうになったのち、いうちからそりやもうああた、椛目の先生ねえごつかしらんばってんか、今度私が行きよるところは世界一ばのち、いうちから宣伝してまわよんなさる。
 それからあんましかんばしい事が無かった。ある日朝お夢を頂いた、それは筑後川のそれこそあの時分の、あの北野の人達というのは、もうそれこそ寝ても覚めても「椛目、椛目、親先生、親先生」だった、私がお話に行くとそのあの土居にずうと送って見えます。すと椛目がもう見えて来る。大城辺にまでくると、もうついでに行くの、ち言うてから又椛目さんつんのちいきょんなさる。それから又一晩御理解頂いて、又帰る。
 もう夜も夜中もなかごた、それこそ【大城大橋は 焼けようとままよ 椛目通いは船でする】ちゅうごたある勢いで参って来よった。そのように。それこそ上せるぐらいな、言わば熱の打ち込みようだったですけれどもです。世界一の先生が現われなさったらころっとそちらに参ってしまった、その大城大橋の下にです。畳みが一枚敷いてある。川の上に、その上にその御婆さんがちゃんとこうやってから。
 そのまあ、座って居られるお知らせを自身が頂いた。中村さんの所に 今日不思議な御夢を頂いたと言う。「何ごつか、」ちいうと「椛目の先生ごた、もうこの頃参よらんもんだからお訪ねしてくれんの」という事であった。成る程、畳みに座っとるごと楽なごたるけれども、段々畳みがしみってきて沈んで来ると、共々に沈んでしまわなければならんと言うような事だろうから、はようもういっぺんそこを思い直しておかげを頂くようにと私は事付しましたけれども、もうその時は身体が動かなかった。
 もうそれこそ亡くなられる前に、あちらのご信者さんが全部で揃うてお見舞いに行かれたら、もうそれこそもう真っ裸であの熱かったかもしれんけれど、まあ休んでおられて実に惨めな格好で、「もう途に角椛目の先生の事は、忘れとらんのに、こういう事になってから、私は罰かぶった」と言うて泣かれたけども、知らなかった、この方何かはもう実に感受性の強い人でした。
 これはもう生まれつき感受性の強い人ですね、だから、そのそれではいけない事が分かりますよね。感受性、感受性というのは、今日私がいうのはおかげの受け者の事なんですね。それにはね、私共が願わなければならん。「どうぞ今日は私にお話を頂かせて下さい。」と言うような私が一人で頂くと言ったような願いを持たなきゃいけん。沢山で頂くと言うのじゃない。私が頂くのだと。
 先ほど東さんが、前講を務めて居ります時に、お話をよく聞こえませんでしたけれど、神様という方は電気体のようなお方だと言うお話をして居りましたですね。神様が生きてござる。天地が生きてござる。ですから、私共の心もやはり生きらなければ、生きておらねば、それに繋がることは出来ない。枯れた木(気)を持って枯れた心を持って心に触れた所でです。それはこちらにいうならビリッとも来んわけです。
 そうですねですから生きた心と言うのは、今日私が言う感受性ね。生き生きとした心で、生き生きとして神様のお陰をピッーとこう受け止めると言うこと。そして申して居られましたね。最近は改まるということにもう不思議なまでにです、今まで改まなければならん。改まなければならんと言う事は、もうそれこそ思いもし、聞きもしたけれど、今年ほど改まると言う事に対して喜びと楽しみを感じておると言うとります。
 今まで出来なかった事に取り組んで此処を改まらせて頂こうと、本気でその気に成らせて頂いたら、楽しゅうなったと、有り難う成ったとその心が生きてくる。その心が私は感受性だと思うんです。だから、その感受性、だからお互い、あの人感受性の強い人だといったような意味においての、感受性でなくてです、もう馴れておる、もう一横だ、一線場に成るんだと、そこから信心の修行、信心の改まりね、
 お話頂いて心の中に、ここ心を開かせて貰うと云った様な事柄がですね、感受性になって行くというので、なからなければ弱いです。只生れつきに、いわばその感受性が強いといった感受性ではなくて、信心でいう所の感受性、いわゆるおかげの受け物という事になります。おかげの受け物を作らせて貰う。まず、おかげの受け物を持ってこなきゃね。手のひらに持って来りゃ、手のひら一杯、やはり一升瓶持ってくりゃ、一升の一杯、一とう持ってくりゃとう、もうこちらの受け物次第なのである。
 だからより豊かにも大きくも成らせて頂かにゃ成らん事が分かりますね。いよいよ限りなく美しゅう成らせて頂こうということにも成らなければならん事が分かりますです。折角お酒を下さいと言うても、これ油臭いじゃないかと言うたらもう詰めちゃ貰われない。これは、汚れとんならばこれはもう洗ってきなさいとしか言われませんね。そこで、ここでは受け物の大きな受け物を目指すね。
 そしてしかも、その受け物が綺麗に改められていく、又は磨かれて行く。限りなく美しゅう成らせて頂くという所に、焦点を置かなければならないという風に言われるわけね。ですから、そういう私共が願いを立てなければいかん。願いを持たなければならんね、今年、元旦祭に皆さんに、聞いて頂きましたように、今年はいよいよ合楽を上げて、私共の信心が、いよいよ世のお役に立たせて頂きたいという念願に燃える為にね。
 いよいよ、世のお役に立たせてくださいという願いを持たなければならんという事になる。私共が本気で世のお役に立ちたい。どのような生き方で、どのお役に立つかね。一人一人それは同じで有って良かろう筈がない。一人一人が違って良いのである。まあそれぞれ、たけだけしゅうにです、世のお役に立つという事はどようなことだろうかと。その事を思い、その事が行の上に現される。そこから生まれて来る感受性。
 だからこれは実行しなければ分からんのです。本当にですね。お陰の受けものというものをですね。その..お互いが作らせて頂く事のために精進する、為に信心すると言ったような姿勢が望まれる訳ですよね。只今この六日から寒修行が始まっておる。全教一斉にそれぞれの修行の目当てを作って、それぞれに各教会で、生き方は違いましょうけれども、いわゆる寒修行にまあ一生懸命である、で有りましょう。
 ここでも寒修行明けと同時に、ここそれこそ勢いが弾くような感じで、朝の御祈念が一段と有り難い御祈念をさせて頂いて寒修行に皆が取り組んで居ります。ですからそれをまだ知らない方、まだ思い立っていない方は、ひとつ一月間ですからね。その一月間でもひとつ朝参りの味合いをひとつ分からせて頂こう。今日北野の堤清さんが、午後から或る願い事が有って二度目のお参りをして見えられた。
 今朝その事を言われますのに、「今朝 どうしたもんかその時計を間違えて、ここへ着いた時がもう四時じゃった、初めて四時の御祈念を頂いた。もうすでに幾人の方達人がもうお参りして親先生の御祈念を頂いて居られた、長年お参りするけれども、初めて四時の御祈念を頂かせてもろうて、感激した。まあ時々は、時計を間違えないけんの」と「明日から、ずうっといっちょ間違えるとよかばい。」
 ちゅうてから申しましたことですけれどもね。まあ、これは怪我の巧妙でございますけれども、私はそこにです、何か神の声を聞くように思う。日頃は毎朝、朝の御祈念に五時の御祈念にお参りをする。さあ、五時から立つてくるから、ここに着くのは五時半、ようやく御理解が間に合うというような程度のお参りがある。いわば一時間繰り上げられた、そしてあの四時の御祈念を頂かれた、そして感じられた。
 これがいわば寒修行だと、ここん所だけがいわば一月間の修行だという風に、まあ悟られるとするなら有り難いなと思いますね。ですから何時も同じでは修行にならん、少しは工夫しなければならん。そこで神様がです、例えば間違わせてからでも、その違った修行を求めたもう。そこから「ああ、こりゃ時間が間違ごうとったけん、しもうたもう一時間寝られるというと思う所には感激はない。
 間違がわせて頂いて有り難かったと、初めて四時の御祈念を頂いて有り難かったと、そういう心が私は感受性を私は創っていくと思うのですね。おかげの受け物、ですからその感受性、おかげの受け物創ると言う事は、どうしても修行が必要なんです、同時に姿勢がですね、私が頂くと、そうじゃない今日のお話を嫁ごに聞かせたかったと言ったようなものじゃなくて、私自身が頂く、また頂く前に頂かせて下さい。
 と言う願いを持っての私は信心じゃなからねばいけない。それはいわゆる東さんが言って居られますように【生きた心だ】この神様は生きてござるから、生きた物と生きた物との触れ合い、そこから交流するのが、それは丁度電気体のようなものであるからね、ここに灯火(あかり)が灯ったり、精米機の、精米の機械がもうたり、製材の機械が音を立ててその勢いよく回るように。
 人間の知恵力ではどうにも出来ないことがなされてくるわけなんです。人力ではなくて、もう神力の世界、それは私共のだけではではどうしょうもない、と言うて、いかに神様が大変な力を持ってござると言うても、その大変な力をいわば引き出す物、受けるものが私達の心なんですね、その私達の心で、生きた心で、神様の無限に下さる事の出来れるおかげを無尽蔵に頂かせて貰う。そこにね金光様ご信心があると思います。
 今朝からの御理解に【人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよ】とこう言う。金光様の御信心を頂いていると言うことはね。道理に合う信心をしておると言う事ということになる、と言う事をこと細かに今日は解いて頂いておる。だから金光様の御信心を頂いておると言う事が其のままですね。金光様のご信心を頂いているというだけで何とはなしに二十年、三十年たいした信心出来んなりにでもです。
 かげを受けるという理を今日は解いて頂いたですね。ですから金光様の御信心を頂いておるということだけでもそのようにいわば有り難いのである。いわゆるそれは何が有り難いのかと言うと、もう全てが隅から隅まで道理に合う信心だからだと言うことなのです。だから御神縁を頂いておるというだけでもそのように有難いね。私は今朝から仕切りに御祈念中に思ったんです、私小学校時代の友達の誰かれのことをです。
 あぁあの頭が良かった、真面目だった、じつに忠実であった、あの友達は中々正義感の強い、それこそ間違ったことは先生でも喰ってかかって、それを正さなければおかんと言ったような正義感であったが、其のまま成長して兵隊に成った、兵隊でも段々成功してだいたい良か所に居りましたけれども敗戦と同時に帰ってきた。それこそ討ち殺しても死なんごた体格の人が胸の病に掛かって死んだね。
 正直である本当に忠実だと本当に友達は真面目であったと思うのが皆んな早死にしておる、そいうのに限って早死にしたというわけではないけれども、もう私共の年輩者がやはり半数以上亡くなっております..ね不思議な事ですね。そこん所を教祖はです、【あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃ】というても、次々難儀なことが起こってくると、どうしたことであろうかというようなことが世間ではあろうがと、信心してお陰を受けるのは、別物と仰る信心とは金光様の御信心ということなんです。
 私その事を一生懸命思わせて頂いて、それに引き換え私のような者、子供の時にはそう目立ちはしなかった、しかもその、あの友達のように正義感も強くはなかった、あの友達のように、忠実でもなかった、頭もよくなかった。その私が現在このようにおかげを受けておるということね、いわゆる信心しておかげを受けるのは別物というおかげを受けておる、これは、私の知っておる限りね。
 それは信心はさほど出けてはいなくても、何十年やはり細々ながらでも信心が続いておるという人の家をみるとですんうね、もう何ともなしにおかげを受けておる。もう第一死んどらんですね、なんとはなしにおかげを受けておるです。是は金光様の御信心が道理にあう信心だからだと、今日は、他の宗教を引いての御理解でした。例えば世界最大宗教と言われる仏教、又はキリスト教それは素晴らしい教えを持っておる。
 素晴らしい広さ深さを持っておる、何十年という歴史を持っておるけれども、そのような素晴らしい大宗教の内容とです、又百十一年しかならないお道の信心とをですね、こう比べて見る時にです、金光様の御信心は素晴らしいなあという事が解る、それは何処かというと道理におうておる信心だという事だと説明でした。道理に合っているという事をです、例えばお道では御神誡と言いますね。
 又は仏教では五戒と言います、または、キリストでは、十誡と言う。十とんお戒め。これだけ犯してはならない、キリスト教の信心するならこうでなければいけないということがとんを、又は仏教では五つね、お道では十二ヵ条と言う風に有りますけれどもです、その五つが、十(とんを)がですどのようなことが詩ってあるか、とても人間では出来そうもない事が詩ってあるということ、しかも詩が難しいだけなら良いけれども、道理に合わないという事なんです。
 仏教では、生臭気を取っては成りません、又はいよいよ仏教を極めようとするなら妻帯する事すらも許されません。あのまあ偉大だと言われる宗教家である親鸞上人様はなんかはです..ね、そういう偉大な僧の中から除かれておられる、何故か嫁さんをもたれたからです。どんなに考えたって道理に合わないでしょうね。金光様の信心はその点ね、例えば仏教でも同じ、キリスト教でも同じことが言えますよ。
 第一お酒を飲んじゃならんね。教祖様は例えば、それは虫であろうが、馬であろうが、魚であろうがね、もう食物の全てがね、食物は人の命の為に天地の神の創り与えたもう物として、許して居られる、許しておられるというか、其の事を教えて居られます。素晴らしいでしょうが、食物それは牛でも、それこそ馬でもね、お魚でもね、命の為に、人間の命の為に創り与えたまえてある物であるから。
 私共命の為に頂かせて貰う所にね、牛の成仏もあろう。魚の喜びもそこに越したことはないという事になるという教えなんです。お酒でも、大酒大欲はいけません大酒大欲はね、自分の命を減らすようなものだと、だからこれを有り難いという所の限度においてですお酒を頂くならばです、それが、有り難いものとして教えておられます。ですからね、その金光様の信心をすりゃ酒も飲まるる。
 肉も食べられると言うところが有り難いのじゃなくてです、道理にあって居るという事なんです、だから道理に合うた信心だからです。今日私が御神前で頂きますのは、こういう三角形のものである。その三角形の中に様々な生活があっとるね。神様の御心に添わないような生活もあるけれども、三角形この事がです三角の是がです、天地に繋がる、だからです、私のような者でもおかげが頂けたという事になるのですね。
 このような、あのようなというような人でもです【信心しておかげを受けるのは別ものぞ】というようなおかげが受けられておるわけです、だからそれでよいというわけではないけれども只,道理に合うた信心をしておるという事だけでそのようなおかげを受けておるという事はです、金光様の御信心を頂いているということは、このように有り難いものだと一人一人がまず、思い込ませて頂いてね。
 んならこの三角形でよいということじゃないね。やはり円満を丸い心を目指しての信心、おかげは和賀心にあり 今月今日でたのんでいかなばならん事は、私の心の中に和らぎ、喜ぶ心頂いていくという事なんですね。そこにはもう願わんでも頼まんでも合掌しなくてもですね、神様は限りなくおかげの下さられる場というものが出来る。いわゆるお陰の受け物が出来るのである。
 和賀心を目指させて貰う、和賀心ためには一つ改まろうと願う所にですね。その神様の喜び感動がこちらに伝わって来る、いわゆる東さんの言われる所の今度の改まるということが、このようにも楽しいものだというように有り難い心が生まれる。その心が感受性おかげをいわばキャッチして止まない心なんだね。金光様の御信心を頂いておるというだけでもこのようにも有り難い。
 それはなぜかというとお道の信心は、どこからどう見てもです、そらおかしいじゃないか、道理に合わないじゃないかと言うことがこれから先もないということ。そこの点有り難いですね、今私が申しました食物訓たったそれだけの事じゃない もう全ての点に於いてそうなんだ、道理に合う信心をさせて頂いておる、ということだけでも有り難い。しかもその信心がです。
 ほなら自分の信心が身に付いて、この三角が段々円満になってくるということ、満丸に成ってくるという事、そこからはもう願わんでも、頼まんでもおかげの受けられる道であるということ、そいうことを私共が分からせて頂いて 今日私が申します、いよいよあの人は感受性が強いという意味の感受性ではなくて、皆がこう一線上に出て行く、同じだと「はあ、先生達とは違う」と言うもんじゃなくて。
 先生も信者も皆同じ一線上に立たせて頂いて、そこから出発する、そして感受性をより確実なもの、より立派なものにして行く為に改まらせて貰おう、磨かせて貰うね、そこからです 例えば、ほならここへお参りして来て、あの障子をこう開けた途端に「あぁおかげ頂いた」とこう言うて皆が言う、もうおかげ頂きたいと一心に思うてやって来るからあんなに有り難い、もう開けたとたんに、私がここに座っておるそれを、チラッと見ただけでです有り難くなる。
 それが感受性どげな人が座っておるかいっちょ見ぎゃいこうという人に例えここに百色光がそのような光が有ってもその人の前に百色光としての現われはないのです。自分自身の心の中の電球が切れておりますから、そんな明るいものが開けるはずがない繋がらない。だからそういう例えば道理を解からせて頂いてです、私共だからなんて言うても姿勢をまず作らなければいけない。
 今年のいわば、まあスローガンのように申しております、世の御役に立たせてもらおうそこで家族中での話し合い、どのような生き方を持ってして世の御役に立とうと、言わば話し合わせてして貰う、自分は自分で練らせて貰う、そしてせめてこの事ぐらいはという所にたわなければならんと思うのです。それが神様の感動を呼ぶ、それが私共の感受性を強くして行く事になることを私は信じとります。                   昨日から昨日一昨日、この地区水連合会の初の幹部会が原鶴で持たれました。会長であります所の平田重吉さんのお話は、もう開口一番もう合楽の事であった。最後まで合楽であったと、私は秋永先生が帰ってきてそれを聞かせてもろうてから話しました、本当に合楽の信心をまだそう知って居られる筈はない、平田さんが何を見てどこを感じて合楽でなかはいかん、合楽の生き方こそが本当だと言う風に言われるのだろうか。
 例えば平田さんが合楽の信心に内容にもし触れられたらもうそれこそ全国に宣伝してまわれるじゃろうちゅうて話してこっでしたね。いわば形に現れておるのがです、ただこの人意的なものではない、神乍らな一つの勢いというものを感じられる、あれだけのお徳を受けられた方ですから、やはり感受性が強いから合楽のその只、その雰囲気の中からですねそれを感受しておられる訳です。
 それで誰がなんと言うても先生方がおられようがです、合楽があらっ信心今はもうこれからの金光様の御信心は合楽の一家でなかりゃにゃ人は助からんちゅうてなかで何かの話から今度の青年会の方達が、四十六名御本部に年頭参拝をさせて頂いたという話をしたらそれこそ膝を叩いて喜びよった、それだちその時に親先生が言われたことは。「これは合楽の御比礼じゃないぞ、これは九州の道の比礼ぞと言われたそうです。
 ということを言ったらもうそれだと言ってもう膝を叩いてですねその共命して下さったということです、各々のいわば教会がです、とにかく自分の教会の繁盛と、どうせならば沢山人間が集まるじゃろうかばっか考えずにね、少し焦点を置換えてです、道の御比礼の為にもです、九州道の為の御比礼の為にもというような願いが置換えられたら、信者の一人一人がです、私の動きそのものがですね、
 九州の道の比礼に関わることだというような願いを持って、お互いがいよいよ信心を進めて行くならばそれこそ世のお役に立つ信心だと私は思いますね。私は合楽の信奉者ですと、に、いわばふさわしい信心を頂かなきゃいけません。それからお話が終わってから一杯の時になってですね、今度、あの今北九州でこれも平田さんが、あの主催をして玄朝という雑誌が出ております。
 もう今度で四回目が発行されました、そいで私ここにもそれを申し込みを言うて来ましたから二十名の申し込み用紙が来ましたから二十名だけ「そんなら総代さん方とまあ幹部の人達だけで二十名申し込んどきなさい」と言うてその申し込んだ所が、昨日その話が出たんです所が「1つそのおかしい事が有る」ちゅわけです、何がおかしいですか、合楽はこの玄潮だけは二十名だけしか取らんがどういう訳かちゅうことじゃった。
 「そりゃ二十名だけでよかったでしょうもん」言うたら、「ぞうたんのごと甘木辺りは三百五十から取りよる、どこどこの小さい教会でも五十は取りよるばい」「ああそんなこっですか、そんなら内は皆にまだ発表もしてないですけんで、そりゃ申し込みが少なかっですよ」て言うた、まあそれを聞いたからじゃありませんけども、私、始めて昨日一昨日玄潮がまいりましたから一番始めから最後まで読ませて頂いた。
 そしたら本当に良い雑誌です。これは数を多く内はどこんと、負けんごと一丁余計取ろうじゃなくてですね、もうこれは信心のない人、又は薄い人に対してですね。を対象にして書かれた本ですけれども信心頂いている者も有り難いご本です。しかも子供から年寄りまでの記事が満載という訳ではないですけどもね。もう途に角一気に読みたいと要ったような記事があ出ております。
 取り分けね今度の四回目から教祖様の生い立ちの所から漫画が連載される事になっておるです。だからこれだけでもですね、一つ皆さんが是非申し込みさせて頂いて、そして自分達もだけれども、まだ連いて来ない子供やら主人やら家内やら、又は自分の周囲の人たちにもです見てもらって稽古を感じないご本なんです。(そこにちょっと誰か本があるから)それがね、月に二百円じゃあない一年に二百円四回発行。
 もう後から見本があるから御覧なさい。もうとても五十円ですになるわけのんですけれどもね。だから数が沢山になるともっと安く出来るという事、そいでこれをどうでもあのう皆さんにもう一人一人ですね、一つこれを取って頂いて、御陰を頂いて貰いたいと、これはいわば、浅いかもしれません、けども今度から文芸欄が一つ儲けられていると同時にその漫画の欄がしかも教祖様のね。
 これだけなら誰でも読むじゃろうと思うですね、教祖様って方はどういうような御方か。金光教の信心とはどうゆう信心か、ということをです、解り易く解いてある、又こう一問一答的風にですね、金光様のご信心の疑問の所をですね書いて、それに答えておる欄もございます。そういう意味で金光様の御心信をまあPRするという意味でしょうかね、PR時代ですからそういう意味合いにおいても素晴らしい。
 ことだと思いますから必ず一冊に限ったことではありませんからねっ、遠くに行っておられる子供さん達にでも送ってくだされば直有り難い。二百円ですからね。もう兎に角申し込んで帰ってください皆さん、ねっ二百円です、ですからその申し込んで帰って頂き、私はだから昨日早速五十人前だけ注文致しました、無くなってはならんと思って、ですから。どうぞ皆さんもこれを入所して読んで頂きたいと思います。
 例えばね、このようなこと浅い者でもです、例えばです「ははあ金光様の信心ちいゃあこげな信心ばいなあ、いっぺん参って見ろうか」と言うて、参ってられる程度であってもです、今朝の御理解頂くと金光様の信心が道理に合っている信心だからお蔭を頂くということになって来るんですね、そういう意味合いにおいてもやっぱし世のお役に立つ事になるのですから。
   どうぞ宜しくお願い致します。